Role Model Interview: 渡辺理香
Women in Technology Japanは、日本のテック業界におけるジェンダーギャップを解消し、ダイバーシティ&インクルージョンを推進することをミッションに掲げています。
このRole Model Interviewを通して皆様がインスパイアされ、勇気を持って自分が本当に輝き、理想とする職種や業界に転職したり、就職したりできるような世の中になること、そして一人でも多くの方々にてテック業界で働く可能性について知っていただきたいという思いで活動しています。
今回のインタビューでは、外資系IT企業に勤める渡辺理香さんにインタビュー。18歳で初めてパスポートを手にし、単身アメリカへ留学。国連を志し、国内外でキャリアを積む中で、女性初の企業での海外出張や国際機関での勤務など、常に挑戦を重ねる。海外移住・結婚・難病の息子の世話、人生の転機のたびに、信頼できる上司や仲間に支えられながら、自らの道を切り開いてきた理香さん。
現在はマーケティング領域でのリーダーとして活躍しつつ、未来のリーダーを育てる環境づくりにも尽力している彼女のストーリーとは?
Q1. 経歴を含めた自己紹介をお願いします
はじめまして、渡辺理香と申します。熊本出身で、難病で亡くなった息子を含む二児のシングルマザーです。
これまでの半生を主に海外で過ごしており、アメリカの大学に留学後、マレーシアでも仕事をしていました。しかし、コロナ禍と家庭の事情により、約25年ぶりに日本へ本帰国しました。
37歳までに国内外で4回の転職を経験し、日系製造業、国際連合、外資系IT企業において、オペレーション、経理、財務、リスク管理、監査など、幅広い分野の業務に携わってきました。
現在は、外資系IT企業でマーケティングオペレーションのリーダーとして勤務しています。
Q2. とても興味深い経歴をお持ちですね!大学でアメリカに留学した理由を教えてください
18歳になるまでパスポートすら持ったことがなく、もともとはとても内向的な性格でした。
中学生の頃、地元・熊本の水俣の海岸で、ベトナムからの難民の方々を目にしたことがありました。最終的に彼らは強制送還されてしまったのですが、その出来事をきっかけに社会問題に関心を持つようになり、「将来は国連で働きたい」と強く思うようになりました。
当時はインターネットもなく、外務省から資料を取り寄せたりして、必要な資格や進路をひとつひとつ手探りで調べました。そこで、国際関係の学位が求められることを知り、母の勧めもあって留学を決意しました。
母子家庭で留学資金の心配もありましたが、アメリカの州立大学の奨学金制度に応募し、合格。苦労してつかんだ留学の機会は、国際色豊かで刺激的な仲間たちと出会える貴重な体験となり、今でも私にとってかけがえのない宝物です。
Q3. ファーストキャリアでは、当時女性初の海外出張を経験されたりフロントランナーとして活躍されたそうですが、そこにいたる道はどのようなものだったのでしょうか
“Opportunity favors the bold(勇気は得てして報われる)”――この言葉は、私のキャリアの出発点を象徴しています。
当時は就職氷河期の真っただ中。新卒とはいえ、希望の仕事はすぐには見つからず、選択肢も限られていました。そんな中、地元紙の求人欄で「英検2級以上」の記載を見つけ、英語力を活かせると思い、東京エレクトロン九州支社へ応募を決めました。
契約社員の募集でしたが、例外的に翌年4月から正社員として中途採用していただけることになり、入社後は多岐にわたる業務を経験しました。
やればやるほど成果が出て、上司や同僚にも感謝されることで、自分の「居場所=NITCH」を見つけることができたと感じました。その後、会社に新たに「キャリア職」が創設され、私はその一期生として選ばれました。女性社員として初の海外出張も任され、欧米への出張を頻繁に経験することになります。
当時、文系の女性社員といえばバックオフィス業務が主流でしたが、90年代半ばからは「希望すればキャリアアップできる」時代が少しずつ始まっていました。こうした機会に恵まれたのは、理解ある上司や仲間、そして変わりつつあった社風のおかげだと感じています。
実はアメリカ駐在のお話もいただいていたのですが、悩んだ末、当時交際していたパートナーとの結婚を優先し、最終的にはマレーシアへの移住を決断しました。
—————–「キャリアは後からでも築けるけれど、自分の人生の伴侶となる人は、そう簡単には現れない。」
Q4. キャリアの第一線で活躍されていた中、移住と結婚という選択はとても悩まれたのではないかと思いますが、最終的に結婚と海外移住を選んだ理由を教えてください。
当時はまだ今のようにLINEやWhatsAppといった便利な通信手段もなく、国際電話の料金も非常に高額でした。遠距離恋愛には、それなりの覚悟と現実的な制約がつきものでした。そんな状況で25歳という年齢を迎え、将来について真剣に考えるようになったんです。
悩んでいた私の背中を押してくれたのは、親友のある言葉でした。
「キャリアは後からでも築けるけれど、自分の人生の伴侶となる人は、そう簡単には現れない。」
その一言が胸に深く響きました。ある程度の貯金もあり、マレーシアでしばらくは生活できるという見通しも立っていたことから、最終的には結婚と移住を選ぶ決意をしました。
Q5. お友達の言葉が胸に響きます。マレーシアでは、念願だった国際関連のお仕事にも就いたそうですが、現地での生活はいかがでしたか?
移住してすぐは、マレー語で放送されているテレビ、異国の景色や食文化など、すべてが新鮮で、約3か月ほどは新婚生活を満喫していました。
でもある日、ふと、以前バリバリ働いていた頃の自分を思い出し、「やっぱり働きたい」と思うようになったんです。
そんな時、現地の新聞広告で国際連合の求人案内を見つけ応募しました。幸いにも面接の連絡があり、自信満々で臨んだのですが、トルコ人とネパール人マネージャーの英語のアクセントが強すぎて何を言っているのかほとんど理解できず、内心とても焦っていました。
それでも必死にメモを取りながら一生懸命聞く姿を見て、マネージャーが「あなたの真剣さに感動した」と言ってくださり、無事に採用されました。
国連機関では、ポートフォリオ・オペレーション・アシスタントとして7年間、奉仕の気持ちで働きました。給与よりも、「この仕事ができる」という充実感が何よりの報酬で、天職でした。
モンゴル、ラオス、パキスタンなど、さまざまな国への出張も経験し、現地でのマイクロファイナンス事業などに携わりました。時には、現地で2週間お風呂に入れないような過酷な環境に身を置くこともありましたが、それもすべて含めて、かけがえのない経験だったと感じています。
その間に30歳と32歳で2人の子どもを授かり、母としての人生も始まり、マレーシアではかけ外のない人生経験を積むことができました。
—————–「Be the one to be admired.(尊敬される存在であれ)」
Q6. マレーシアでの働き方はいかがでしたか?
マレーシアの女性はとてもパワフルなんです。
国際関係の仕事から外資系IT企業に転職した時のことです。40代前半に差し掛かり、セカンドディグリー(第二の学位)取得を迷っていたのですが、当時マレーシア人部下の一人が、母親業とMBAの両立をしていて、その姿に感銘を受けました。メンターに「彼女を尊敬している」と伝えると、「Be the one to be admired.(尊敬される存在であれ)」と逆に喝を入れられたのです。その言葉が私の背中を強く押してくれました。
彼女にできて私にできないわけがない――。そう思い、すぐにイギリスのMBAに出願し、パートタイムで3年半かけて卒業しました。ありがたいことに、会社がスポンサーとなって学費も免除されました。会社員、母、学生、妻、嫁と、いくつもの役割を同時に担いながら、濃密で充実した日々を過ごすことができました。
Q7. キャリア形成で意識していることはありますか?
私がキャリアを築くうえで意識しているのは、「上司を信じて、オープンに相談していくこと」です。
これまでのキャリアには、何度か大きな転機がありましたが、そのたびに信頼できる上司やメンターの存在に支えられてきました。
息子がミトコンドリア病という難病であることが分かった時期に、管理職の打診を受けたときです。息子のことで職場に迷惑をかけるのではという思いから、一度はそのお話を辞退しまたのですが、そのときのマネージャーが「あなたの準備ができるまで待つよ」と言ってくれたのです。
そこで、自分にできることを考え、両立のために自分なりのアクションプランを立ててみることにしました。家事代行の利用や家族からのサポートを積極的に取り入れ、周囲の支えが自然とある環境に本当に助けられました。
Q8. 今までで一番大きな失敗は?それをどう乗り越えましたか?
私にとって最大の失敗は、「No」と言う勇気を持てなかったことです。
少し語弊があるかもしれませんが、組織の一員として会社員である以上、自分の都合を優先するのは簡単ではありません。有給休暇は制度として存在していても、実際にはなかなか取りづらい現実があります。
ミトコンドリア病の息子がPICU(小児集中治療室)に75日間入院していたとき、家族としてそばにいるべきだったのに、私は「迷惑をかけてはいけない」と自分を追い込み、四半期決算期には仕事を優先してしまい、ほとんど休みを取らずに過ごしてしまいました。
さらに追い打ちをかけたのは、ちょうどその時期に重なっていたMBAの卒業式。たった3日間の不在でしたが、その間に14歳の息子の容体は急激に悪化してしまい、帰宅後まもなく旅立ちました。あまりにも突然の別れでした。
「乗り越える」という言葉ではとても表現できないほど、深くて長い喪失の時間がありました。ちょうど今月で(6月)、彼が旅立ってから10年になりました。
この経験から学んだのは、「時間は有限である」ということです。そして、「優先順位を持つこと」の大切さです。
出会いは奇跡であり、大切な人との時間は何よりも尊いものであること。その気持ちを胸に、私は彼の死を境に、家族や身近な大切な人との時間を何よりも大切にするようになりました。
Q9. 未来のリーダーを増やすために、私たちにできることは何だと思いますか?
まず何よりも、「環境づくり」が非常に重要だと感じています。特に女性の上司やリーダーが、「仕事一筋」だけではなく、オフタイムの自分や家庭・趣味といった側面も大切にしていることを、周囲にオープンに伝えていくことが、次の世代へのヒントになるのではないかと思います。
働く全員が、必ずしも仕事に対して「やりがい」だけを求めているわけではありません。報酬や待遇の現実も、まだまだ追いついていない部分があると感じます。だからこそ、私たちができることは、自分自身の「生き様」を素直に、等身大で共有していくことではないでしょうか。人それぞれ違っていい。キャリアの築き方にも、正解は一つではないと伝えていくことが大切だと思います。
また、育児だけでなく、今後は「親の介護」という現実にも多くの人が直面します。せっかくリーダーに昇進しても、介護を理由に早期退職を選ばざるを得ない人もいます。だからこそ、「女性リーダーを増やす」ことだけでなく、「女性リーダーが続けられる」社会的インフラや金銭的サポートの充実が、これからの日本社会には欠かせないと思います。
制度は使ってこそ価値があるもの。遠慮せず、行政や企業のサポートを積極的に活用し、自分自身を犠牲にしすぎない環境を整えていくこと。そうした一つひとつのアクションが、未来のリーダーを育てていく土壌になると信じています。
Q10. 「自分自身の生き様を等身大に共有していく」、Rikaさんのお話がとても胸に響きました。最後に読者の皆さまへメッセージをどうぞ!
私は典型的なロールモデルではないと思いますが、「こんな人もいるから、大丈夫だよ!」と、同世代や次世代の皆さんにエールを送るつもりで今回インタビューを受けました。
いま、多くの女性が、家庭や育児、介護、仕事を一人で抱え、懸命に頑張っていると思います。
タスクは誰かが代わりに対応できますが、キャリアは一人で築けるものではありません。キャリアを続けられる背景には、必ず誰かの支えがあるのだと思います。私自身も、家族、上司、仲間、そして多くのサポートがあってこそ、今の自分があると感じています。
このインタビューも、お世話になった上司や周りの方々、亡くなった息子、出会ったすべての人に捧げたいです。そして必要な方に届くと嬉しいと思っています。Be Kind to Yourself!
WITJは、このRole Model Storyを通して皆様がインスパイアされ、勇気を持って自分が本当に輝き、理想とする職種や業界に転職したり、就職したりできるような世の中になることを望んでいます。
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